今回の台北旅行には一つ目的がありました。
母が生まれ、育った場所を一目見て置くという目的です。
私の母は、台湾生まれです。
母はいわゆる『湾生』と呼ばれている日本人です。
『湾生』を知らない人がほとんどだと思いますし、私も子供のころから母が台湾で生まれ、戦後に日本に戻ってきたという話だけをずっと聞いており、そうした日本人の事が『湾生』と呼ばれているという事は最近になって母から聞いて知ったのです。
『湾生回家』という台湾映画があります。
「故郷」台湾を訪れる湾生を描いたドキュメンタリー映画です。
第二次世界大戦で日本が敗戦する1945年までの50年間、台湾は日本の統治下にありました。
日本統治下の台湾はとても豊かで平和で暮らしやすかったそうです。
特に台湾で生まれ、育った『湾生』にとっては、日本という国の方が未知の世界であり、幼少期を豊かに過ごしながら、敗戦し荒れ果てた日本を見たときどんな気持ちになったか、想像がつきます。
ですから、台湾生まれの『湾生』の人たちにとって、台湾という場所は懐かしく楽しい思い出の残る故郷な訳です。
母も言います。私の故郷は日本ではなく、”台湾”だと。
6歳で日本に戻ったとき、家も食べ物も何もなかったそうです。
広島の焼け野が原を目にしながら、祖父の故郷の九州へ引き揚げて来たそうです。
台湾で標準語で育った母は、地元の方言で会話する子供たちから、言葉が違うといじめられたそうです。
また、貧しいため、小さな子供のころから家の手伝いや祖父が始めたお店の商品を一人、自転車に積んで売りに行かされたと聞きました。
台湾の生活から一変した日本での生活では、「疎外感」や「孤独」を感じたそうです。
だから、日本に戻った幼少期の思い出よりも、穏やかな台湾で映画を見たり買い物をしたり、豊かに過ごした時間の方がずっとずっと幸せであったわけです。
母が住んでいた場所は、台北中心部の有名なお寺「龍山寺」からほど近い場所にありました。
前に一度訪ねていましたから、その時に自分が育った場所の向かいに住んでいらっしゃった、日本語を話す台湾人のおばあさんに会えたらと思ったようです。
残念ながら、そこにはもうそのおばあさんは住んでいませんでしたが、隣の工場のご主人が大変親切で、近くに住む日本語を話す90歳を超えたおばあさんを探してきてくれました。
そして、自分がここに住んでいたことや、近くで買い物をしたり、近くの小学校に通う予定だったことなどをそのおばあさんと話し、当時を懐かしんでいたようです。
今となっては当時の建物も面影も無くなってしまってはいましたが、近くにあった小学校には、当時のままの「二宮金次郎」の像が残っていました。
それは、ここが日本と同じような小学校であったことを思い起こさせます。
そして、母の家があった隣りの庭には、立派なパパイヤの実がなっていました。
実ったパパイヤを見ていると、母が生まれた場所が「台湾」という、日本ではない場所であることを改めて感じました。
現代に生きる私からすると、「台湾」という国は日本と文化も民族も近く、親切で暖かい人々が暮らす場所という印象しか持ちませんが、母たち『湾生』の人々からすると、日本人でありながら、日本人とも言えない、複雑な気持ちで人生を歩み、私とは別の台湾を見ていたのだろうと感じました。
今となっては、飛行機ですぐに旅行が出来る場所ですが、昔の母たちにとっては長らく、近くて遠い故郷だったのでしょうね。
台北の町のあちらこちらには、日本統治下の古い建物が沢山残されています。
日本よりも、ずっと残されていて、その当時の日本統治下での建物はカフェや記念館として出来る限り保存されています。
こうしたことは日本人として、とても嬉しい気持ちになります。
このまま、日本人も台湾人もずっと仲良く交流できる世の中であってほしいと思います。
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