『福岡大空襲』の追悼式のニュースをテレビで見た。
コチラは西日本新聞の記事。
74年前の6月19日から20日に博多と天神は火の海に包まれたということ。
ここで暮らす人々の上に容赦なく焼夷弾が落とされたということ。
私の父は、一昨年、亡くなった。昭和7年生まれ。85歳の誕生日を迎えた翌月でした。
博多生まれの博多育ち。幼いころに父親を亡くしており、子供のころから苦労したであろうことは想像できる。
ふと思った。父はこの『福岡大空襲』があったとき、どこにいたのだろうと。
私はもう少し、父から子供の時のこと、戦時中のこと、色々と話を聞いておくべきだったと思った。
本当にあまり何も聞かないまま、父は旅立ってしまった。
振り返ると、父が話してくれた戦時中や戦後の話は面白可笑しいものだけだった。
一つは米軍機のB‐29がやってくると、ダダダ~っと機関銃を打ってくる。すると、畑の中に隠れるのだけども、わざとB‐29が低空で近づいてきては馬鹿にしたようにブーンと通りすぎるのだそう。そして操縦する米兵とチラッと目が合うのだそうだ。
それを見て、「子供と思ってバカにして!コンチキショ~!って思ったさ。」と笑いながら面白おかしく語る。
振り返ると父は積極的には戦時中の話はしなかった。
聞かれるとそんな感じの話をしてくれた。笑い話のようにしか語らない。
娘の私にはこんな具合でしか語らない。
本当はどうだったのかな?怖くて恐ろしかったのじゃないのかな?
私には恐ろしい思い出を聞かせたくなかったから、笑い話にしてしか話せなかったのではないのかな?
それから、戦後の貧しい状況の話も、父は楽しい話にして聞かせてくれた。
お弁当箱に電極を通して、パンのようなものを作ったという話。
「ひもじいけんさ、配給の小麦粉にソーダを入れて、電気を通したらプーッと膨れるったい。それがおいしかったんよ(笑)」てな感じで、笑いながら話す。
だから、父から聞いた戦争の辛い話は深刻な話として私の耳には入ってこなかった。
父はきっと、自分が苦しい思いをした話を聞いたことで、私の顔が悲しい顔になるのを見るのが嫌だったのではないかと思う。
口数の少ない父だったが、私と目が合うと、ちょっと目を大きく開けて「ニッ」と笑ってくれる。
だから、子供から大人になった私はもうちょっと父から本当の話をしっかり聞いておくべきだったと後悔してる。
『福岡大空襲』その追悼のニュースを聞いて、そんなことを思う。
もう、当時をちゃんと語れる人は少ない。
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